花のchillらむ

高校生、たまに文を書きに来ます

恋愛は悪になりうるのではと思ったのでしばらくできない

この一年、特に最近の出来事で恋愛に対する考えが大きく変わりました。

まとめるとオタクが恋をするとメンヘラになったし、失恋してバイセクシャル性に気づいたが、恋愛は辛いし悪になりうるということがわかったので恋愛感情をコントロールしてやろうぞ!

という文章です。

失恋がきっかけでブログを書き始めました。夏ごろには傷はすっかり癒えて、数列の課題に勤しんだり、喉カラカラでみずみずしいフリー画像を眺めるくらいにはキラキラのJKに。

フラれてから数か月、失恋以外にもいろいろあって、こういうことを考えました。

合っているかはわかりませんが大切な持論です。

「感情は言語化によって解釈を変えればある程度コントロールできる」ということ、

「その時にいくら強い感情を覚えても、それはいずれ過去になる」ということと、

「恋人や周りの人間からの評価を頼りにすると辛い。自分が自分自身を誇りに思えるような能力や実績や環境を、自ら手に入れるべき」ということ。

 

1つ目は、実は中学生のときから思っていたことです。

中学生になって、「人は謙虚であるべきだから、自分のことが好きな人はいないものだと考えるべきだ」と思うようになりました。

小学生のときはクラスに「好きな人」と「推し」がいました。いわゆるLOVEとLIKEは違うよねというやつです(いわゆるという言葉を使ってしまいましたが、私の小学校の外ではこういう話あったのでしょうか)。私は私なりに「好きな人には見返りを求め、推しには見返りを求めない」のだという結論を付けました。

しかし「自分のことが好きなひとはいないものだ」と考えるとなると、「見返り」というものは存在しないのだということになります。

こうして、「ふおおおお好きだ!!!」と心が動いた対象をすべて「推し」と置き換える中学生になったわけです。周囲の恋のお話にはついていけませんでしたがファンを演じるほうが楽しいのでした。恋愛ならば二股だ三股だと非難される一方、こちらは箱推し上等。授業での発表なんてライブですからね。

それが恋ではなかったのかはわかりません。「推し」と話したりするのは普通に緊張しますし嬉しかったので相互関係を全く考えていなかったわけではなかったですし。しかし実際、小学生の時は恋多き人だったと思うのですが、中学生では自分からの恋愛はしていません。

中学での最後の最後に、向こうの方から好意を向けてもらっているという噂を聞きつけ、「見返りがあったことが分かってしまった」となって、気が付いたら久々に恋に落ちていたというわけです。後にgoogleフォームの被害者となる方です。

 

高校生になって、とある本で「感情が生まれ、その理由をわかり、その感情が言語化され、発言、そして行動に移される」という思考のプロセスがあると知りました。今の解釈ではそのプロセスにおいて、恋に準ずるような感情を「推し」として言語化することで、世間の言う「恋愛」とは当てはまらない形の「好き」を楽しんでいたのかなと考えています。

しかし例外が出てきました。

私は高校生活において、自分は同性もいけるのだということに気が付きました。とくに彼氏と別れてから。

思い返してみれば、小中学生のときのあれや、これも、それだったのか、というのがいくつかあるっぽいです。

例外が出てきてしまった要因は、高校ではコミュニケーション能力の低さもあって同性と触れ合う機会のほうが圧倒的に多いことと、二次元や三次元のオタク活動においての「推し」が男性であることが多いこと、あと失恋のあとは友達に助けられて身の回りの人間関係にとても支えられたことだったんじゃないかなって思っています。

「うわぁ推しとは言えないけどなんか気になってしまうな…」ってなって。これが恋だとするならなかなか叶わないだろうし。失恋直後だから恋をするというのも少々気が引ける。この時すでに「言語化」の解釈をしていたので、とにかくその感情を「恋愛」と言語化することをなんとか避けて、ただの「好き」なんだとか博愛主義者なんだとかそういうフェチなんだとか、捻じ曲げろ捻じ曲げろと言い聞かせて……たいてい数か月経つと落ち着きます。それと引き換えに眼鏡と低音ボイスと太ももフェチの変態博愛主義者になったくらいで、なんだ例外もそんなもんか、みたいな。

ということで、

「感情は言語化によって解釈を変えればある程度コントロールできる」し、

「その時にいくら強い感情を覚えても、それはいずれ過去になる」。

どれだけ好きだと思ってもその時に言語化を捻じ曲げてやり過ごしていればいつか落ち着くので、私って恋愛しようとしなかったら絶対に恋愛ができないんだなって考えたわけです。

自分の自己肯定感がとんでもなく低いせいでメンヘラで苦しかったので、

相手の評価を気にすることのない程度には努力したり人生を楽しんだりしてから恋愛コントローラーを解除して、婚活を頑張ってみようかなって考えでやっていくようになりました。

 

この時までは。

 

私の親友が(私から見てですが)ひどい恋をしたと知った時までは。

親友のためにも、具体的な話はよしておきます。

恋って悪になり得るんだなって思いました。

恋じゃなくても、人間を自分にとっての悪にする場合ってきっといくつかあって、

だから概して人間は信用できないし、それでも人には事情があって、一人ひとり大事にしているものも考え方も能力も違う。だから誰一人として信用できないけれど、人間という存在を許さなければならないよなって。

そう思っておけば、私はその時に悲しんだとしても、傷つくことはないなって。

伝え方が下手ですね。うまく表せませんで…すみません。

 

そして、では自分は?と考えました。

自分はなるべくなら悪になりたくないんです。

私にとって自分を悲しませるものは悪で、他人を悲しんでいるのを見ると私は悲しいから、他人を悲しませる自分は自分にとっての悪です。

どうしようもないときもあるとは思うので、だから人間は信用できないのだと思うのですが、でも、せめてできる範囲でなら、悪になることは避けたいのです。

 

そしてこの度、恋愛は悪になりうるものだと知ったわけです。

恋愛が悪になるかどうかは、なんとなくギャンブル的な、確率の問題かなと勝手に思っています。予測不可能でほぼランダムと言ってもいいいろんな人間の行動が重なって、具体的な出来事が起こると思うので。

しかしそうでなければ恋愛はえもいわれぬ幸福をもたらすわけです。

まさにギャンブルだなって思ってしまいました。当たりはずれの確率は違うかもしれませんが。

ギャンブルはお金を儲けるかもしれないが、大損失につながるおそれがある。ギャンブルで大損失しないためにはギャンブルをしなければいい。ギャンブルが楽しくてしたいならすればいいが、私はやらない。

同様に、恋愛は幸福をもたらすかもしれないが、悪になるかもしれない。恋愛を悪にしないためには、恋愛をしなければいい。恋愛が楽しくてしたいならすればいいが、私は恋愛をしない。

 

恋愛に憎悪を感じるようになり、自分の中から完全に恋愛を排除してやるという思いがある以上、私は恋愛感情をコントロールし続けるわけで、この思いがなくならない限り、私は恋愛ができない。

 

人間は大好きなんです。信用はできないし、もしかすると全部VRで存在しないのかもしれないけど。こんな変態な私と喋ってくれる人は本当に優しい人たちだなと思いますし、自分以外の人の考え方を知ってたくさん考えさせられてきたし成長してきましたし、これからもそうしていきたい。大好きだ愛しているとつぶやきながら寝る日もあるくらい大好きです(こんな変態です)。でも「恋愛」という種類の「好き」を意図的に排除しています。

 

これからもしかして私に恋をしてくださる人が現れたり(いや、自信はない)、周りの人たちが家庭を築くようになったりしたらと思うと、

私は恋愛することはできるのに、あえてしないのってどうなの?と感じます。

 

でもこの思いを覆すことは簡単にはできないくらいに、私は恋愛に対して深く憎悪を向けているから、恋愛するぞなんて気分にはなれないのです。

今のところ、恋愛を深く憎んでいるのに「恋人がいます」って言う自分を想像すると、はらわたが煮えくり返るのです。

 

うーん、はらわたよりもカルボナーラソースを煮えくり返らせて、みんなでパスタをたべて暮らしたい。