花のchillらむ

高校生、たまに文を書きに来ます

自分の垢が乗っ取られ謎のリンクをDMで送りまくってしまった時の気持ち

日記です。本当につまらないものを書いてしまいました。

中学校や高校での友達とつながっている、いわゆるリア垢が乗っ取り被害に遭った。

「インスタ乗っ取られてるよ!」とLINEがあったので気が付いた。

数日前に、普段DMのやり取りなんてしないしめったに喋らないクラスメイトが、「三時間かかった」という旨のメッセージとともにリンクを送ってきた。その人のストーリーを見ると、乗っ取られたので無視してくださいと書いてあった。狐につままれた感覚だった。乗っ取られたというその文章を信じるしかなかった。そういえばそのアイコンの奥に誰がいるかなんてわからない。クラスメイトのアカウントから発されたリンクを私は無視し、その一方でそれと同じアカウントからの無視してくださいとの指示を信じるのであった。

そんなことがあったから、私は表情を変えず、あれよあれよと増えていくメッセージの送信欄を見つめていた。いろいろな人のアイコンがポンポンポンと表示されていった。よく投稿をする中学の同級生、きっと私と同じでインスタのアカウントをとりあえず作っただけであろう、投稿はほぼゼロに近い同級生、だいぶ垢抜けた同級生、話しかけづらい同級生、数日後に遊ぶ約束を控えた同級生。遠い存在に感じたし、ああ今私が謎のリンク送りつけてるんだなって、近いようにも感じたのだった。

元彼にも謎のリンクを送りつけているのでさすがに苦笑いした。あんなに悩んで、メッセージをつくってはやめ、つくってはやめた私の純情などはいさ知らない乗っ取り犯。ヤツにとっては彼も百数人のカモのうちのただの一人(カモ単位なら一羽?)なのである。ヤツはなに食わぬ字面で「三時間かかりました」という旨のメッセージと謎のリンクを送信している。私はかつてそのメッセージひとつに何時間かけたっていうんだろう。お前なんかに負けてたまるか。乗っ取り野郎。シチューになってしまえ。三時間かけてじっくりコトコトしてやりたい。

とりあえずストーリーと投稿によって「乗っ取られたので無視してください」と喚起をした。私もだれかに私が以前感じたような奇妙さを与えただろうか。メッセージを見てみると何人かから「どうした?」と返事が来ていた。ひとりひとりに、乗っ取りなのでリンクは触らないでおいてね、という感じで返信をした。家に帰ったらドーナツ置いてあったくらいの充足感があった。しかし、人によってドーナツにどれくらいの価値を置くかは異なるので、この例えはあまりよい例えだとはいえない。

多くの人は私の喚起をみて謎のリンクを無視してくれている。私は次から、あえてこんなDMが来たら「どうした?」って返事してみようと思うのだ。先にストーリー見とけよとか、乗っ取り遭ったんだから知ってるだろって感じだけど。あ、じゃあ「どうした?」じゃなくて「大丈夫?」くらいがいいか(うーん)。先方のお手を煩わせるかもしれない。しかし、たしかに謎のリンクへの返信から生まれたやりとりに私の頬はほころんだのだった。

 

 

めっちゃ勉強がんばりたいと思うようになった文学部志望の高校2年生(※失踪してたブロガー)が1年間なにを考えてたか!!

ごくごく普通でなんの根拠もない高校2年生が、今年得たものをただ書くだけの内容となっております。ガリ勉のメンヘラかつオタクな私が勉強サボってブログもサボって悩んだ結果受験生がんばるぞって話です。

 

 

失恋したので自分の価値を高めたいと思った!!

 

そもそも私がブログを書き始めたのは、勉強漬けの日々から降りたかったからでした。

勉強漬けの日々から降りたい、と思う前に、私自身の価値をあげようと思うことがありました。失恋という経験をしてのことです。受験が終わるまでわたしは「今の自分にはなんの価値もないが、受かれば価値ができる」という考えでいるつもりでした。それまで自分の心の支えになるものは他人からの評価であるはずでした。

よって件の恋愛は相手の方への依存の強いものでありました。1年間付き合って会ったのは5、6回だった気もするので、相手の方というよりは、自分が理想とする相手の方への依存だったかもしれません。LINEの返信がいつも怖かったし、会っても思うように喋れませんでした。私が好きだったのはいったい誰、いったい何だったんだろうな。でもとにかく大好きでしたし、本人に対しては本当に感謝しています。

未熟な私でしたが、熟したいと願う私でしたので、恋とは愛とは自分とは相手とは、とたくさん思考しました。価値のないわたしをその人はどう思っているんだろうと思うと体の芯まで冷え切ってしまって、そういえばうちの両親は非常に仲が悪いのですが(ふたりが喋って笑いあっているところを生まれてこの方見たことがありません)、出ていけ、お前は努力をしない、恥ずかしいと思わないのかと怒鳴り声が聞こえる部屋の隅で静かに怒りを抑えていたときもこんな寒さを感じたなと思い出しました。それぞれ尊敬できるところもあって、面白いひとなんですけど。

わたしのブログ名のchillはこの寒さのことです。

この寒さは自分という人間の中身のなさを深く感じたことによるものじゃないのかなと考えています。両親は一緒にならなければよかったのに。一緒にならなければ私は生まれない。いまの私にはなんの価値もない。私が生きている意味とは?

自分が自分のことを嫌いなのに、自分のことが好きな人の気持ちなんてわかりません。というか、自分のことが好きな人がいるなんてありえないと思うのも自然なことでした。恋人の言葉に依存してしまうのもまた自然なことでした。

付き合っていても日々苦しくて、自分に価値があると思えなければこの苦しみはなくならないんだと思う度、絶対に受かろうとそれはもう熱心に勉強しました。別れを切り出されたのは高校一年生の春。まさか受験結果も見ない間にわたしの心のよすががいなくなろうとは。

失恋をしたので友達にたくさん頼って、相談もしてもらって、その間たくさん笑いました。ああ私の周りの人はやさしくて面白くて素敵な人ばかりで。そんな友達が私のことを好きでいてくれて私は幸せ者であって、そうだよね私って面白いじゃん、これまで勉強してきたおかげじゃん、そんなマインドにまで復活して2年生になりました。

 

自分に自信がなくうまく話せなくて面談で泣いたのでブログ始めた!!

 

まだ勉強漬けの道を降りたいとは思っていませんでしたね。決断をしたきっかけはうまくいかなかった面談です。私の弱点、大人との会話。高校受験の面接の本番でも話していたら途中から涙がとまらなくなってました。面接官の方のオロオロっぷりといったらまた。私が思うに自分のことが嫌いなのに自分が良く見えるように話すなんて、いたたまれないし痛ましいからなのでしょう。

自分のことを語るのに、誇れるものが何もないなって、この面談の時も涙が出てきてしまって、新しい担任の先生を困らせてしまいました。ちなみに言うとほんとうにいい先生なのです。私って面白いから友達がいるんだよなんて、勉強は頑張ってるけど夢とかは特にないなんて、そんなこと言えないからその時点でもう話すことなんてなくて、自分はなんてくだらないんだろうと思いました。

悩んで悩んで、今自分がすべきことは自分の夢や生きがいを見つけることであって、それをするには今の自分は勉強に力を入れすぎているから忙しすぎるという結論に至りました。特に予定がないときだと、1週間での空き時間が1時間あったかな、というくらいで。国語の勉強で出会った文章をもとに自己分析を始めていたからこそ、至ることができた結論かもしれません。

勉強漬けの日々を送っていると、毎日エナジードリンクを飲んで四六時中勉強をして、身を削って、青春を犠牲にして、という世界がリアルに、間近に見えるのです。私はエナドリは怖くて手を出しませんでしたが…。いろんな友達に相談に乗ってもらったという出来事が直前にあったおかげで、その世界の外を見ることができたのもよかったのだと思います。

塾やめたるわーと騒いで塾の先生に相談に乗ってもらって、なんとか引き留めてもらって、受けなければならない授業の数を減らしていただきました。自分でも生活を見直してみて、だいぶ自分の時間が増えました。

 

根拠はないんですけど、私は自分で自分の文章が好きです。このとき根拠を作ろう、ということで、ブロガーとして有名になってやろうと一万円ちょっとを落とし玉から捻出してブログを立ち上げました。もしかしたらこれが職業になるかもなんて本気で思ってて、なんか実は自分大好きなのでしょうか、社会を甘く見ているというか(ブログの収益化は諦めましたが、社会を甘く見ているところがあるのは今もです)。矛盾ですね。

 

誰か読んでくださる方がいたかどうかは別として(今もいらっしゃるかわからないと思って書いてます)、楽しかったです。学校から帰ってきて8時とかからブログを書き始め、気づいたら夜の2時をまわっていたりしてました。

友達が大好きで、自分を好きになるために努力も始めて、余裕が無いといっちゃ無かったけれどTwitterで学校の人と繋がってみたり本を読んでみたり歴史や俳句の勉強をしてみたり制服のスカートを切ってみたり友達と遠出をしてみたり、春から夏休みはいろんなものに手を出して、まとめるなら「好き」を中心に生き始めてみていました。

 

他者への依存はやめたい!!

 

人に依存する癖は抜けきっていませんでした。友達と話すときは嬉しかったけど反応とか声色とかを思い出して家で怖くなって自分の言ったことを反省していました。陰キャ特有のアレです。今の私としては、生まれ持った感受性が極端に高いとこうなるんじゃないかなと思いますが。専門用語をあげるなら、HSP、HSEのような。

怖くなったときに言い聞かせていたのは、「誰かひとりに思いをかけてはいけない」ということでした。有名な言葉を引用すれば『来るもの拒まず去るもの追わず』、もしくは『FRBご自由にどうぞ(Twitterの、フォロー・リムーブ・ブロックを自由にしても大丈夫ですという意味)』に近いです。

友達といったって、私の全てが好きなわけはないと思うんです。意見が食い違う部分は絶対にあるし、見えていなかった部分が見えたときに、この人とは合わないと思ったなら無理して付き合ってもらうよりも離れてもらったほうが全然良い。そうしたほうがきっとその人も私も幸せなんですよね。ところが誰かに思い入れをしてしまうとその人が離れていったときに非常に精神が揺れてしまうのでよくない。というか離れられるということに敏感になって、反応や声色まで過剰に気にしてしまうなって思ったので。

これは後ほどとある経験から、私は「人間不信」という名前をつけて大切にすることとなった価値観になるのですが、その経験も難しいことなので、考えがまとまったら記事にしようと思っています。

 

オタ活に再熱して感情に乗っかって生きる大切さを思い出した!!

 

夏休みになぜなのかブログを更新することを後回しにしはじめてしまいました。そこから今まで失踪していましたね。

そんな罪悪感の中で大変言いづらいのですが、夏休みから秋の始めにかけて、新しくハマった漫画がありました。私は元来、オタクという種類の人間です。高校受験のときからしばらく離れていたのですが、作品というか、文化に対して心が揺れることが、もっと知りたいという渇望が、久々に私の中に蘇りました。離れていたときはそんな馬鹿なとすら思っていたのですが、この感情は平気で普段の体調や心拍数すら支配してくるものでした。忘れていました。

その出来事に対しては、ずっと自分の意思というものを忘れていたんだな、といった感想です。順位や偏差値といったものがついてまわるようになってから、勉強に対して周りからの目を意識し始めました。いつしかどれだけ自分の時間や青春や趣味や感情を犠牲にしているかをアピールするようになりました。

また、自分は感情に突き動かされてこそ力を出せるのではないかと思いました。楽しい、知りたいという感情は熱望、渇望といった勢いを持ち、その勢いに乗って”オタク活動”をし、そうして得たものは今でも私の知識や考えの大部分を占めています。そういえば友情だって部活だって恋愛だって、私はずっと感情面において”重い女”でいました。重い女って言い換えれば熱い人間なんですよきっと。いま現在進行形で、感情だけでこの文章に集中し始めてから机を離れず、4時間経ったところです。

 

感情に乗せて努力をするのが得意な人間が、感情を抑えて勉強をしている。私がくすぶっていたのはこのせいだと思ったのです。

 

知識欲に火がついて学歴社会を考察した最強メンタル(←諸説あり)で受験生になる!!

 

加えて、作品や文化を作るにあたって(そうするともちろんそれらを楽しむにあたっても)基本的なところは学生に求められる「勉強」から得られる知識に集約されているのだろうなとも考えるようになりました。

それとは少し外れたところですが、数ある具体的な事柄の奥には、もとをたどっていくとすべてに通じている根本的で抽象的な何ががあるのではないかという推測をしています。

分かりづらいので例を出しますと、私は十七条の憲法に熱をあげたことがあり、第10条「忿を絶ち瞋を捨て、人の違うことを怒らざれ」の言葉をモットーとしています。それを友達に話すと、その子は「私の愛する『無常観』にも通じる点がある」というのです。それを聞いた時に、媒体が違えども各々の感情、思考という形のないところにおいて、その媒体から得られるものには通じる何かがあるのではと思いました。この推測が正しいかどうかを学ぶことは、私が大学で哲学を学ぶことを志望している理由の一つです。ん?この文章すこし和文英訳の例題みたいですね…

 

悩みたいという熱望に乗せて、そんなことを悩んで悩んで悩みました。知識欲に火が付くまでに時間はかかりませんでした。私には全般的な知識が必要だ、自由になるための知識が、自分の興味に向かって際限なく勉強できる環境が必要だ、勉強をしていたいんだ!!!!

ちょうどテスト週間に入ったところだったので感情に任せて夜更かししてテスト勉強をしまくって、肝心のテストで開始5分後に寝落ちし、ほぼ白紙で提出し見事赤点を取るという本末転倒の暴走っぷりです。反省はしていますが後悔はしていません。

 

この結論に至った頃、家族と進路について相談する機会がありました。この時にはじめて私は「哲学なんかやって何になるの」「夢もないのに何をするために大学に行くの」という家族からの問いに自信を持って答えることができました。はじめて私がなぜ勉強をするのか納得できた瞬間であったとも言えます。

 

受験生でも、また大学生でも、「自分がなぜ勉強するのか」という了解をしきれていない人も多いのではと個人的には感じます。過剰な学歴社会はその証明だと思っています。やりたい勉強ができる環境(文献や時間や指導者など)さえあれば皆同じ質の勉強ができうると思うのです。それなのに、例えば、同じだけ勉強したとしても東大に受かった人の価値と、落ちてしまった人の価値には差ができる。落ちた人が知っていることで、受かった人が知らないことだってあるかもしれないのに。

(ちなみに私は高校受験に落ちてから、合格、不合格とは、受験とはということを考えるのが癖になってこびりついています。不合格者とはそういうものなのかなって思ったり。違う人もいるかもしれませんが。)

みんなが勉強に対して熱意を持ったならば、学歴なんていらないのではないでしょうか。でもいまの社会はみんなに勉強への熱意をもたせる自信がないから、熱意との相関が強いのであろう「点数」によって選民をするのではないかなって思ってしまいます。

 

ただ最近思ったのは、これだけ私が熱意をもったとしても勉強って大変だなってことです。辛さを感じないわけではないのでした。そんな勉強の「辛さ」を知らないのに、勉強がしたい、勉強って楽しいって言えないなとも思いますね。

それから、おそらく学歴主義を非常に強く持っている人ならば、私が学力的な説得力を持っていない限りは、私が「学歴というものは学問において本質的な問題ではないのだ」といっても負け惜しみにしか聞こえないのでしょう。

そんな人にも私の考えを伝えるために、また「つらい」勉強を知るために、実を言えば私としてはだいぶ高望みな志望大学を設定しております。

 

その点で、根拠はやはりないに等しいのですが、私の価値、というのか強みは、ここまで感情的になって知識を渇望したり、悩み尽くしていったりできるところなのだと思えるようになりました。それが正しいかどうかは、大学受験や大学での研究も含め、これからの将来にかけて私がいかに勉強し、いかなる人間になれるかによって証明されるでしょう。それを叶えられるように、頑張ります、といった気持ちです。

 

ということで感情に任せ勉強へ突っ走っていた結果、ブログの存在を忘れていたということですね。失踪しててすみませんでした!!!お久しぶりです!!!!

 

おしまい

 

恋愛は悪になりうるのではと思ったのでしばらくできない

この一年、特に最近の出来事で恋愛に対する考えが大きく変わりました。

まとめるとオタクが恋をするとメンヘラになったし、失恋してバイセクシャル性に気づいたが、恋愛は辛いし悪になりうるということがわかったので恋愛感情をコントロールしてやろうぞ!

という文章です。

失恋がきっかけでブログを書き始めました。夏ごろには傷はすっかり癒えて、数列の課題に勤しんだり、喉カラカラでみずみずしいフリー画像を眺めるくらいにはキラキラのJKに。

フラれてから数か月、失恋以外にもいろいろあって、こういうことを考えました。

合っているかはわかりませんが大切な持論です。

「感情は言語化によって解釈を変えればある程度コントロールできる」ということ、

「その時にいくら強い感情を覚えても、それはいずれ過去になる」ということと、

「恋人や周りの人間からの評価を頼りにすると辛い。自分が自分自身を誇りに思えるような能力や実績や環境を、自ら手に入れるべき」ということ。

 

1つ目は、実は中学生のときから思っていたことです。

中学生になって、「人は謙虚であるべきだから、自分のことが好きな人はいないものだと考えるべきだ」と思うようになりました。

小学生のときはクラスに「好きな人」と「推し」がいました。いわゆるLOVEとLIKEは違うよねというやつです(いわゆるという言葉を使ってしまいましたが、私の小学校の外ではこういう話あったのでしょうか)。私は私なりに「好きな人には見返りを求め、推しには見返りを求めない」のだという結論を付けました。

しかし「自分のことが好きなひとはいないものだ」と考えるとなると、「見返り」というものは存在しないのだということになります。

こうして、「ふおおおお好きだ!!!」と心が動いた対象をすべて「推し」と置き換える中学生になったわけです。周囲の恋のお話にはついていけませんでしたがファンを演じるほうが楽しいのでした。恋愛ならば二股だ三股だと非難される一方、こちらは箱推し上等。授業での発表なんてライブですからね。

それが恋ではなかったのかはわかりません。「推し」と話したりするのは普通に緊張しますし嬉しかったので相互関係を全く考えていなかったわけではなかったですし。しかし実際、小学生の時は恋多き人だったと思うのですが、中学生では自分からの恋愛はしていません。

中学での最後の最後に、向こうの方から好意を向けてもらっているという噂を聞きつけ、「見返りがあったことが分かってしまった」となって、気が付いたら久々に恋に落ちていたというわけです。後にgoogleフォームの被害者となる方です。

 

高校生になって、とある本で「感情が生まれ、その理由をわかり、その感情が言語化され、発言、そして行動に移される」という思考のプロセスがあると知りました。今の解釈ではそのプロセスにおいて、恋に準ずるような感情を「推し」として言語化することで、世間の言う「恋愛」とは当てはまらない形の「好き」を楽しんでいたのかなと考えています。

しかし例外が出てきました。

私は高校生活において、自分は同性もいけるのだということに気が付きました。とくに彼氏と別れてから。

思い返してみれば、小中学生のときのあれや、これも、それだったのか、というのがいくつかあるっぽいです。

例外が出てきてしまった要因は、高校ではコミュニケーション能力の低さもあって同性と触れ合う機会のほうが圧倒的に多いことと、二次元や三次元のオタク活動においての「推し」が男性であることが多いこと、あと失恋のあとは友達に助けられて身の回りの人間関係にとても支えられたことだったんじゃないかなって思っています。

「うわぁ推しとは言えないけどなんか気になってしまうな…」ってなって。これが恋だとするならなかなか叶わないだろうし。失恋直後だから恋をするというのも少々気が引ける。この時すでに「言語化」の解釈をしていたので、とにかくその感情を「恋愛」と言語化することをなんとか避けて、ただの「好き」なんだとか博愛主義者なんだとかそういうフェチなんだとか、捻じ曲げろ捻じ曲げろと言い聞かせて……たいてい数か月経つと落ち着きます。それと引き換えに眼鏡と低音ボイスと太ももフェチの変態博愛主義者になったくらいで、なんだ例外もそんなもんか、みたいな。

ということで、

「感情は言語化によって解釈を変えればある程度コントロールできる」し、

「その時にいくら強い感情を覚えても、それはいずれ過去になる」。

どれだけ好きだと思ってもその時に言語化を捻じ曲げてやり過ごしていればいつか落ち着くので、私って恋愛しようとしなかったら絶対に恋愛ができないんだなって考えたわけです。

自分の自己肯定感がとんでもなく低いせいでメンヘラで苦しかったので、

相手の評価を気にすることのない程度には努力したり人生を楽しんだりしてから恋愛コントローラーを解除して、婚活を頑張ってみようかなって考えでやっていくようになりました。

 

この時までは。

 

私の親友が(私から見てですが)ひどい恋をしたと知った時までは。

親友のためにも、具体的な話はよしておきます。

恋って悪になり得るんだなって思いました。

恋じゃなくても、人間を自分にとっての悪にする場合ってきっといくつかあって、

だから概して人間は信用できないし、それでも人には事情があって、一人ひとり大事にしているものも考え方も能力も違う。だから誰一人として信用できないけれど、人間という存在を許さなければならないよなって。

そう思っておけば、私はその時に悲しんだとしても、傷つくことはないなって。

伝え方が下手ですね。うまく表せませんで…すみません。

 

そして、では自分は?と考えました。

自分はなるべくなら悪になりたくないんです。

私にとって自分を悲しませるものは悪で、他人を悲しんでいるのを見ると私は悲しいから、他人を悲しませる自分は自分にとっての悪です。

どうしようもないときもあるとは思うので、だから人間は信用できないのだと思うのですが、でも、せめてできる範囲でなら、悪になることは避けたいのです。

 

そしてこの度、恋愛は悪になりうるものだと知ったわけです。

恋愛が悪になるかどうかは、なんとなくギャンブル的な、確率の問題かなと勝手に思っています。予測不可能でほぼランダムと言ってもいいいろんな人間の行動が重なって、具体的な出来事が起こると思うので。

しかしそうでなければ恋愛はえもいわれぬ幸福をもたらすわけです。

まさにギャンブルだなって思ってしまいました。当たりはずれの確率は違うかもしれませんが。

ギャンブルはお金を儲けるかもしれないが、大損失につながるおそれがある。ギャンブルで大損失しないためにはギャンブルをしなければいい。ギャンブルが楽しくてしたいならすればいいが、私はやらない。

同様に、恋愛は幸福をもたらすかもしれないが、悪になるかもしれない。恋愛を悪にしないためには、恋愛をしなければいい。恋愛が楽しくてしたいならすればいいが、私は恋愛をしない。

 

恋愛に憎悪を感じるようになり、自分の中から完全に恋愛を排除してやるという思いがある以上、私は恋愛感情をコントロールし続けるわけで、この思いがなくならない限り、私は恋愛ができない。

 

人間は大好きなんです。信用はできないし、もしかすると全部VRで存在しないのかもしれないけど。こんな変態な私と喋ってくれる人は本当に優しい人たちだなと思いますし、自分以外の人の考え方を知ってたくさん考えさせられてきたし成長してきましたし、これからもそうしていきたい。大好きだ愛しているとつぶやきながら寝る日もあるくらい大好きです(こんな変態です)。でも「恋愛」という種類の「好き」を意図的に排除しています。

 

これからもしかして私に恋をしてくださる人が現れたり(いや、自信はない)、周りの人たちが家庭を築くようになったりしたらと思うと、

私は恋愛することはできるのに、あえてしないのってどうなの?と感じます。

 

でもこの思いを覆すことは簡単にはできないくらいに、私は恋愛に対して深く憎悪を向けているから、恋愛するぞなんて気分にはなれないのです。

今のところ、恋愛を深く憎んでいるのに「恋人がいます」って言う自分を想像すると、はらわたが煮えくり返るのです。

 

うーん、はらわたよりもカルボナーラソースを煮えくり返らせて、みんなでパスタをたべて暮らしたい。

喉乾いてカラッカラの人がみずみずしい画像を調べて所感を述べる

今のステータス。喉乾いた気分になりたい人だけ閲覧ください

今日は学校に500mlのお茶を持って行った。3限目は体育の授業で、汗をかいた・疲れたというよりも体温が上がった感覚がした。その感覚は寒いはずの冬にお風呂からあがった時、30分くらい寒さへの無敵時間を得る代わりに、暖房で暖まった部屋で息が詰まるような蒸し暑さを感じる時と似ていた。そういう時、私はすごく可愛い感じのものへの耐性を顕著に失う。真っピンクの部屋を想像することは呼吸を阻害する。よって、人は無敵になるとピンクの部屋に入れない。サンリオピューロランドの平和はこうして保たれているのではないか。

6時間目の休み時間に、ついにお茶を飲みつくしてしまった。内側にまだ水滴がついているだろうから、ちょっと勢いよく息を吸ってみたものの虚しく空洞音がひゅ、となっただけであった。肺活量が足りなかったのだった。スイミングを小学一年生でやめてしまったからだ。水が嫌というほど口に入ってきたころのことを思うなんて、とんだ皮肉だと感じた。

そして今、あろうことか7限目まであった授業を乗り切り、諸事情により6時まで学校に居てから家へ帰ったところだ。冷蔵庫を目の前にして、あえて涼しいリビングをあとにし、パソコンに向かっている。水分を最後に口に入れてから記事を書き終わった現在で、6時間は経っている。口内が今流行りの珪藻土のようだ。そしてこれから、フリー画像の素材のサイトで水分を含んだ感じの画像を検索し、ひとつひとつに今の感想を言っていこうと思う。

利用させていただくフリー画像サイトさんは、

https://pixabay.com さんです。ありがとうございました。

それでは画像を見ていきます

落とす, スプラッシュ, 水, 液体, 壁紙, バックグラウンド

1枚目。検索ワード「水」。なんだこれは。30年後くらいの公園の水飲み場か。円盤状のアレが回りながら水を与えてくれるのだ。口をつけるところが水だから汚くないんだ。そしてこの背景、この景色は、絶対に冷たい水のそれだ。波紋がオアシスの蜃気楼のように見える。

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沈めてほしいとは言わないから、一瞬ペロペロさせてほしい。今から仰向けになるから、上から水をかけてこういう光景を見せてほしい。間違えて水中で息を吸って鼻をツーンとさせたい。

湖, 雪, 山, 木, 山の範囲, 針葉樹, 山の風景, 山岳地帯, 風景

飛び込みたい。ポイントは明らかに寒そうだということだ。私はこの記事を書くため、お茶はおろかエアコンの入った部屋に行くことや制服を脱ぐことも我慢している。乾いた上に暑いのだ。ただ、このご時世だからというわけでもないが、手は洗ったしうがいもしたことを許してほしい。冷たい水面に肌をぴしゃりと叩かれ、淡い痛みを感じたい。ふるえながら水から出てきたい。凍った髪の毛を負ってぽりぽりと溶かしながら食べたい。

トマト, 野菜, 食品, 赤, 生鮮, 日本, 鮮やか, 皿, 植物, 瑞々しい

検索ワードを「みずみずしい」とした4枚目。きっと収穫したてのトマトで、今おばあちゃんが木桶に湧き水を流しながらきゅうりやナスと一緒に泥を落としたのだ。そんなはずはないんだけど、水滴はきっと少しトマトの味がするんだ。耐えられずかぶりつけば皮は前歯に若干抵抗しながらついに破れ、弾力のある果肉を抜ければ甘味のある水分が弾ける。充分に噛まないまま食道を冷たいトマトが滑り降りる。美味しい。

木, 樹木, 枝, 庭, 緑, 葉, 雨, 水滴, 瑞々しい, 大津, 横須賀, 日本

率直な願望を述べると、根本のほうから咥えてぢゅーと音を立てて吸いながら上まで上がって来たい。苦くてもいいし砂の粒が少しついていても気にならない。水滴をすぽんすぽんと一滴ずつ味わって吸い込みたい。全部吸いきってしまったら、最初のほうに吸った茎に戻ってきて、多分吸ってぬるくなった分がいくらか冷たくなっていると思うから、ちぎって茎中の水分を噛みしめながら惜しみたい。

スパーク リング ワイン, 泡, 眼鏡, ペア, シャンパン, ワイン

「今日、楽しかったね。」

「そうだね。私もう足パンパン。いっぱい歩いたね」

「うん。明日も楽しみだね。」

「こんにちは」

「こんな幸せな時間がもう二分の一も終わってしまったなんて。」

「そんなこと考えないで、まだ美味しい夕飯が待ってる」

「乾杯済ませてもらっていいですか。」

「え……」

「あんた誰ですか」

「ありがとうございます。それでは二杯ともいただきます。」

追記

私も小学生のときからたまにこういう状況になっていたので軽い気持ちで書いていたのですが、どうか真似しないでくださいね。

https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/nettyuu/nettyuu_taisaku/

厚生労働省公式の熱中症対策のサイトです。私と同じく喉が渇いた方はぜひお金を惜しまず水を飲み濡れタオルで汗を拭いて、熱中症対策してくださいね。

理想の夏休みを送れておらず、中盤になって焦りだす

【注意】この記事はほんとに一部分、陰キャなりに友達と遊んだり(コロナへの考慮は私なりにしっかりしました)けっこうしっかりめにオタ活満喫している成分が含まれています。少ないほうですが、気を付けてください。

夏休みに入る前。ついていけなかったところを補充して勉強して、復習を完璧にして、英検の勉強もして、録画した番組をイッキ見して、読書をして漫画を読み返して…と、夢の夏休みと夏休みが終わった後の理想の自分を思い描き、心躍らせていたものです。

さて現状はというと。夏休み前半は、部活だからと勉強などしませんでしたし、夜は動画を見る手や絵を描く手を止めることができず…明日になってしまうのが怖かったのです。夜更かし。そして次の日の朝は妹と母のパズーもびっくりの騒音被害でたたき起こされ(私の部屋はリビングの隣なのです)、ストレスMAXで起床。部活があるときは遅刻寸前でへろへろになりながら駅へ走り、部活がないときは勉強しようとするも睡眠時間が足りず意識を失います(私は7時間半寝ないとどうもうまくいかないのです)。

ぜんぜん満足な生活送れてないし、課題すら終わっていないということで、昨日の夜眠れなくなったのでした。

あーあ、ここまででよくわかったと思いますが、私は自制心とか克己心とかそういうのがほんとーーになくてですね、自堕落な人間なんです。開き直ってこんな事言ってるのも証拠になっちゃいますね。はいはいその通りです。昼寝でよだれ垂らしてソファの顔の重みで凹んだ部分が池になって溺れかけるし、パンとかゴミ箱の上で食ってるのに床汚した上そのままにしとくし、鼻炎薬の継続も困難です。

まあでもね、こういうことって私だけじゃないって思うんです。上記ほどはないかもしれませんが。おんなじ人がいたら安心するじゃないですか。こんな自堕落で空白な夏休みも楽しかったって思いたいじゃないですか。あと残り2週間の夏休み、せめて足掻きたいじゃないですか。

振り返ってみましょう。本当に今までの夏休みは無駄だったのでしょうか。

友達と比較的たくさん遊んだと思います。といってもインドア陰キャの”たくさん”だから陽キャから見れば一滴二滴くらいなんでしょうが。コロナに気を付けて田舎に行ったり島に行ったり家に呼んだり呼ばれたり、とか。人と喋って景色を楽しんで、写真を撮って美味しいもの食べて。人間としての喜びだなあとか、なかなか心を震わされたんですよね。今年は高2の夏だし、つまり来年は受験生だし、絶対に無駄じゃなかった。

ゲームして、漫画を読み漁って、ニコニコを見まくって、小説ばっか読んで、1日潰しちゃったりとか何回もありました。…それは1日どころか何日も潰してるってことになりますよね。ばれたか。でも何も得なかったでしょうか。ずっと履修したかったジャンルに手を出せて、とある漫画に再熱して、一層絵が描きたくなったし勉強がしたくなりました。そういう熱意や興味こそ、本当の知的好奇心だと思ったりするというか。自称進学校の高校生風情が言ったもんじゃないですけどね。日本人特有のオタク精神、みたいな、そういうの本当にあるのか私には分からないですが、ちょっと誇っちゃうじゃないですか。

朝の二度寝なんて、普段は絶対にできません。何か月ぶりだったんでしょう。犬が布団にのせてーとベッドのへりでぴょんぴょんぴょん、と頼んできて、のせて抱いていっしょに寝て、平和っていうか幸せでした。犬がいない皆さんも、二度寝やお昼寝は間違いなく幸せだったと思います。直後の罪悪感などを抜きにすれば。私も二度寝して、最悪泣きたくなっちゃいます。でも、もしも自分を責めすぎてしまうなら、終わったことなら幸せだけ味わっちゃえばいいと思います。反省してリカバリーすることと、罪悪感を感じ続けることは別物だと私は思ってます。

関係ない話ですが、

なんなんでしょうね、自分もそうなんですが(もし自分だけだったら私ってドクズですね。どうしよ)、なんか失敗した人がその直後に笑ってたりはきはきと喋ってたりすると、「ん?」ってなっちゃいませんか?

自分が失敗したときもそういうこと考えちゃって、変に演じちゃったりするんですよね。素直に笑えなかったり発言控えちゃったり。ただ中学で運動部やってて思ったのですが、声出し控えちゃったら一層態度が悪いプレイヤーにみたいになって。そうじゃなくても、ミスして明らかに機嫌悪くなるタイプとかいたけど、みんなが余裕ないときは「声出して!!」って怒られたりとかしてて見てるこっちが辛くなったものですから。”反省”ってかなりスキルの要る行為なのではとか。

夏休みの話に戻りましょう。

現状を整理します。まだ夏休みは15日あります。お盆休みは終わり、部活が始まり、出校日もありますね。自由に使える時間は体感よりだいぶ少ないとみて良いでしょう。ただ遊ぶ約束もありません。前半は大いに楽しみましたが、後半は勉強に集中できます。遊ぶ約束で埋まっているという人は、上っ面の付き合いで実は行きたくないって用事なら「インゲン豆にあたって体の節々とかが激痛なんだ」って言ってキャンセルしちゃおう。インゲンは多分当たらないしドタキャンすると呪われるかもしれないから、前もってキャンセルしとくのもいいと思います。

さて2週間で何ができる。ちょっと長めのテスト週間くらいあるじゃないか。2週間前の土日なんて中学生の60%くらいはゲームしてますって。最近はなんかみんな頑張ってるような気がしてきたけど。知らないそんなこと。だからこれは差がつくと言ってもいい。ちょっと長めのテスト週間があれば、中学校の歴史で言う「千々石ミゲル」とか「束帯」とかそのへんのポジションの単語まで覚えられます。なんで高校の歴史の話をしないのかって?えへへ…。

…こうならないために勉強すべきだし、私もここから抜け出したいので頑張りますから。

なんか縛られちゃうと嫌ですよね。教科書に載ってない歴史のストーリーとかは何時間だって勉強してられますが、課題の数学は一問も解けずに犬を吸いに行ってしまいます。自分、青チャートやれるくらい得意じゃないし…。中学じゃ秀才扱いの高校2年生、ほんと底辺になったものですね。これからはその数学の克服が課題になってくるのできっとそれも書きますから、悩んでる私をまた見てくださいね。

勇気とか元気とか、出ましたか?私は自分どんだけ何もしてないんだ、って昨日寝れなくなってしまいまして、…そんな無益で辛い夜ないですから。自分がやったこと無駄じゃないってことと、ここからのリカバリーを書きました。夏休みだけでなくこれからも時間を大切にやっていかなければならないですしね。そうすればきっと苦しいばかりでない生活、きっと送れますから。大人にならないと思ったオタ活はできないでしょ。そうやって生きる希望を持ちたかったんです。人生を大変なことで埋めなくていいし、大変なことと思うから大変なんだって、胸を張って言えるような大人になりたいと思ってます。

悩んでいるときにほしいブログとは?

ただの日記です。誰かを救うかもしれないし、多分救えないし、逆に傷つけるかもしれません。

今日久しぶりに落ち込んで泣きました。いろいろ重なって特に不安定なのもありますが。

そういえばこういうリアルタイムの落ち込みを書きたかったのでした。

というのも、「悩んでいるときにほしいものって何なのか」に対して、私にはある考えがあるのです。

普通なら、探すのは同じ悩みを悩み終わった人の経験談がほしいと思うでしょうし、見つかるのも往々にしてそれらでしょう。というか、現状悩んでいる人ってブログなんか書きません。悩んでいるのだからのんびり書いている余裕なんかないのです。

ということで、私は恋をするととてつもなく落ち込み、悩み、泣き寝入るのですが、そんなときに他の方のブログを漁っていました。例えば失恋の記事では、恋をし終わって、きっと充分に泣いて、悩んで、それでもなんとか日常生活に戻ることができて、何週間か経ったような方が書いているものを読むわけです。憶測で偏見ですがね。そんな方が「失恋なんて最初は辛いけど、すぐに次の恋を探しましょ」とか、「ほかの趣味や人間関係に使える時間が増えるじゃない」とか書くわけです。失恋して3か月も経った私からすれば、確かに言ってることは合っていると思えます。

ですが。悩んでいる真っ最中にそれを読むと、どうもコレジャナイ感を抱いてしまいます。

考えてもみてくださいよ。たった今、失恋して泣いてるのに、「次の恋はもっといいものになるから」って励まされて、別れて3時間くらいで次の恋見つけてきちゃったら、そりゃないじゃないですか。ほんとに落ち込んで泣いてる奴のほとんどは、おそらくそんなことはできない。

「ほかの趣味に時間を使えるじゃない」もそう。まさに失恋し泣いている時の私の手は、溢れる涙と鼻水をティッシュで拭くのに忙しいのです。もしも編み物やお絵描きや習字や読書をすれば作品はぐっちょぐちょ、かつベッタベタです。なんかこの一文、欧米っぽくないですかね。

ということで、

結局、「悩んでいる時に欲しいもの」って、共感なんじゃないかって思うんです。これは女くさい意見なのかもしれませんが。とか言うとコンプラ気になってくるので、一応私も女です。悪気はないですよ。

とはいえ、失恋をしたときに友達と電話し、「わかるよ…うん。わかる。辛いね。」といった共感ではありません。いや、当事者になってみると、これも本当に心の支えになるんですがね。それは私の友達がうわべだけでなく共感してくれたからなのでしょう。感謝しています。

そうではなく、まさに失恋して泣いてる人が読みたいのは、同じくまさに失恋して泣いてる人の書いた、涙の跡がにじんだ文章なんじゃないでしょうか。

もしかしたら、失恋して落ち込んでいることを素直に打ち明けられる友達がいない状態で、共感がほしい人はいるかもしれないし、どんな友達のことばもうわべだけに聞こえてしまって余計に落ち込んでしまう人だっているかもしれない、ものすごい深夜に失恋しちゃった人とかも。

まあ、そのためのブログにしたいとか思って、

私はポリシー的な感じで、リアルタイムで悩んでいることを書きたいなって思ったわけです。

建設的では決してないですがね。私だってコレジャナイとか言いながら、なんだかんだブログを読ませていただき、「次の恋(←見あたらない)」「趣味や仕事や人間関係」なんかに元気づけられて今ここにいるわけですから、そっちのほうがよほど利益があるのかもしれません。あるのでしょう。あるに違いない。

とか言ってたら、何悩んでたかほぼ忘れてしまいました。これではポリシーに反するので書けません。眠すぎます。おやすみなさい。

クソデカボイス女と、合唱コンクール

私、おそらく小中では誰にも負けたことのないクソデカボイスを持っています。

とは言いますが、別に誇れることではありません。

そんな私の合唱コンクールの思い出を書こう、って気分になりました。

※特に音楽の知識はないので適当に書いてます。

私の好きな合唱曲

歌ったことのある曲の中で特に好きなのは、

世界がひとつになるまで忍たまのエンディングだった曲ですね。やさしい、やさしい声で歌う1番と、グッとスケールが広がる2番Bメロ、”なぜみんな この地球に 生まれてきたのだろう”

からの2番サビ”思い出のまぶしさに負けない とても素敵な夢がある”という歌詞は、今になって心にしみる、一番好きな歌詞です。

それから、「この星に生まれて」。2分の1成人式のときに歌いました。NHKの「生き物地球紀行」のエンディング曲らしいですね。確かに、”川は~緩やかに~時を~~旅する~~~(ふーーーーうーーーーーうーーーーーーうーーーーーーー←ハモリ)”のところの、ハモるのももちろん楽しいんですがなんかこう、大気の循環を感じさせるような神秘的な感じがですね、とても好きなんです。あと”何かを探して この星に生まれた”ってフレーズが、ハモリのメロディーもあってすごく、たったいま人間的に自立したんだ、というような力強く芯のある印象を受けるんです。

今思ったんですが、この2曲は私が小学生の時に知った曲なのですが、好きな歌詞から、当時私は”自分の人間としての存在意義”みたいなものに疑問を持ってたのかしら?とか思いますね。

サビ前のクレッシェンドがドタイプなので、YouTubeCBCさんが公式・許可アリで投稿してる名古屋市立蓬来中学校さんの「この星に生まれて」ぜひ聴いてみてください。こんなとこで布教していいか分かんなくて怖いので、リンクはちょっとすみません。

クソデカボイスは目立つの

合唱をすれば、「君の声はめちゃくちゃ聞こえるね」と言われてきました。

確かに。

歌ってないときも、中学の部活はベンチを温めし者だったのですが、おそらくチーム内で一番騒いでました(応援)。ちなみに高校の演劇部で、「中学時代はベンチあっためてました」の流れから「ベンチを沸かせてました」と言ったら若干ウケました。なんて優しい部活なのでしょう。演劇部ではクソデカボイスを遺憾なく発揮しています。

中1までは何も疑うことなく、「私の声が目立って聞こえる」というのは褒め言葉だと思っていたので、楽しく歌っていました。

中2の合唱コン時は、クラスの陰キャ陽キャの分かれ方がさながらモーセ出エジプトでして、全体の前ではあまりキャラを出せないでいました(言わずもがな、陰キャ側ですから)。加えて「あんま大きな声出したら、団結的な意味で良く思われないんじゃないか…」とか思いまして。申し訳ないんですがそれほど力を入れて歌いませんでした。

モーセ出エジプト

「感情を入れつつ声は抑えて歌えないのかヘタクソ」とか今、私も思いました。けど、言い訳させてくださいよ。サビの合唱の指導になると、先生みんな「もっと大きく!!!そこ小さいよ!!!!うおおおおおおおお!!!」とかおっしゃるじゃないですか。

私は指揮の側に立ったことがないので、その指導が間違ってるか正しいかとかは、分かんないんですが。

そんでテンションがブチ上がっちゃうんですよ。

もし「感情を入れつつ声を抑えて」歌わなければならないなら、

先生の「うおおおおおおおお!!!」って感情に一緒に「うおおおおおおおお!!!」ってしつつ、

「もっと大きく!!!」という指導は無視して、逆に声を小さめにして歌うことを意識しなければならないんです。

なのですが、私の声が大きいのかどうか自分ではそこまで意識できないものですから、先生の言う「もっと大きく!!!」を勝手に無視していいものか分かりません。

それに、感情を出したいのに、それと逆にかなり理性的に声量を抑えることになります。頑張ればできるのかもしれませんが難しいですし、単純に、楽しくないです。単純すぎますね。それにそんな難しいことをやったとして、それが正しいのかどうかもわかりませんし。

だから、結局、「感情を出す」を諦めるしかなかったのが中2で、

それから自分の楽しさに全振りしてしまったのが中3です。

相変わらず陰キャだったけど、中3のクラスすごく好きだったんです。全員対2人のコーラスのパートも任せていただいて。「あなたへ~旅立ちに寄せるメッセージ~」という曲で、とても神々しく、共感性が高く、盛り上がりがすごくて、歌うのが本当に楽しい曲だったんです…。だったんです…。

最後にサビのメロディーが4回も繰り返されるんです。転調あります。最高です。そりゃあ先生もクラスのみんなも「うおおおおおおおお!!!」ってなるじゃないですか、楽しいから私も「うおおおおおおおお!!!」ってなるじゃないですか。ガチで全開でいくじゃないですか。声量のこと考慮ゼロでした。

さて、うちのクラスは金賞を狙っていました。ソプラノのパートリーダーとして私も、絶対に獲れると思っていました。結果はそうではありませんでした。しかも銀賞でさえなく、銅賞でした。どうしよう。言うてる場合か。

未だに思い出しては、「ああ、私のせいだったんだよな」って思うんですよね。

一番上手い気でいました。別に特別に歌の習い事とかしてるわけではなかったですが。伴奏の子と指揮の子には負けるかもしれませんが、「合唱コンの歌」にかけては一番努力していたつもりもあります。受験生なのに毎日朝と夜、布団の中で何回も歌って、録音して直して、自信の裏付けになる努力をしていたつもりです。ちなみに入試には落ちました。

一瞬不安になったので、先生や指揮者に、「私はこのままで良いんですか」的なことを訊いたことがあります。何言ってるのあなたはとても良いわよと、君の声がないとやっぱり勢いが足りないと思うと言ってくれて、そのまま行きました。

そこは、建前なんか言わなくてもよかったのにな。いや、どっちなんだろう。本音だったのかもしれないけど、もしそうならすごく嬉しいけど。

でもまあ事実として、それはそれは楽しい合唱コンクールでした。

そういうわけがあって、私が一番楽しく歌うことができるのは学年曲です。

300人近くで歌った「3月9日」のあと言われたのは、「やっぱり君の声はよく聞こえるね」

という言葉でした。

もうでかいのはいいから、上手くなりたい。高校生のうちは時間なさそうですが、いつかちゃんとした練習をしたいです。

おしまい