花のchillらむ

高校生、たまに文を書きに来ます

めっちゃ勉強がんばりたいと思うようになった文学部志望の高校2年生(※失踪してたブロガー)が1年間なにを考えてたか!!

ごくごく普通でなんの根拠もない高校2年生が、今年得たものをただ書くだけの内容となっております。ガリ勉のメンヘラかつオタクな私が勉強サボってブログもサボって悩んだ結果受験生がんばるぞって話です。

 

 

失恋したので自分の価値を高めたいと思った!!

 

そもそも私がブログを書き始めたのは、勉強漬けの日々から降りたかったからでした。

勉強漬けの日々から降りたい、と思う前に、私自身の価値をあげようと思うことがありました。失恋という経験をしてのことです。受験が終わるまでわたしは「今の自分にはなんの価値もないが、受かれば価値ができる」という考えでいるつもりでした。それまで自分の心の支えになるものは他人からの評価であるはずでした。

よって件の恋愛は相手の方への依存の強いものでありました。1年間付き合って会ったのは5、6回だった気もするので、相手の方というよりは、自分が理想とする相手の方への依存だったかもしれません。LINEの返信がいつも怖かったし、会っても思うように喋れませんでした。私が好きだったのはいったい誰、いったい何だったんだろうな。でもとにかく大好きでしたし、本人に対しては本当に感謝しています。

未熟な私でしたが、熟したいと願う私でしたので、恋とは愛とは自分とは相手とは、とたくさん思考しました。価値のないわたしをその人はどう思っているんだろうと思うと体の芯まで冷え切ってしまって、そういえばうちの両親は非常に仲が悪いのですが(ふたりが喋って笑いあっているところを生まれてこの方見たことがありません)、出ていけ、お前は努力をしない、恥ずかしいと思わないのかと怒鳴り声が聞こえる部屋の隅で静かに怒りを抑えていたときもこんな寒さを感じたなと思い出しました。それぞれ尊敬できるところもあって、面白いひとなんですけど。

わたしのブログ名のchillはこの寒さのことです。

この寒さは自分という人間の中身のなさを深く感じたことによるものじゃないのかなと考えています。両親は一緒にならなければよかったのに。一緒にならなければ私は生まれない。いまの私にはなんの価値もない。私が生きている意味とは?

自分が自分のことを嫌いなのに、自分のことが好きな人の気持ちなんてわかりません。というか、自分のことが好きな人がいるなんてありえないと思うのも自然なことでした。恋人の言葉に依存してしまうのもまた自然なことでした。

付き合っていても日々苦しくて、自分に価値があると思えなければこの苦しみはなくならないんだと思う度、絶対に受かろうとそれはもう熱心に勉強しました。別れを切り出されたのは高校一年生の春。まさか受験結果も見ない間にわたしの心のよすががいなくなろうとは。

失恋をしたので友達にたくさん頼って、相談もしてもらって、その間たくさん笑いました。ああ私の周りの人はやさしくて面白くて素敵な人ばかりで。そんな友達が私のことを好きでいてくれて私は幸せ者であって、そうだよね私って面白いじゃん、これまで勉強してきたおかげじゃん、そんなマインドにまで復活して2年生になりました。

 

自分に自信がなくうまく話せなくて面談で泣いたのでブログ始めた!!

 

まだ勉強漬けの道を降りたいとは思っていませんでしたね。決断をしたきっかけはうまくいかなかった面談です。私の弱点、大人との会話。高校受験の面接の本番でも話していたら途中から涙がとまらなくなってました。面接官の方のオロオロっぷりといったらまた。私が思うに自分のことが嫌いなのに自分が良く見えるように話すなんて、いたたまれないし痛ましいからなのでしょう。

自分のことを語るのに、誇れるものが何もないなって、この面談の時も涙が出てきてしまって、新しい担任の先生を困らせてしまいました。ちなみに言うとほんとうにいい先生なのです。私って面白いから友達がいるんだよなんて、勉強は頑張ってるけど夢とかは特にないなんて、そんなこと言えないからその時点でもう話すことなんてなくて、自分はなんてくだらないんだろうと思いました。

悩んで悩んで、今自分がすべきことは自分の夢や生きがいを見つけることであって、それをするには今の自分は勉強に力を入れすぎているから忙しすぎるという結論に至りました。特に予定がないときだと、1週間での空き時間が1時間あったかな、というくらいで。国語の勉強で出会った文章をもとに自己分析を始めていたからこそ、至ることができた結論かもしれません。

勉強漬けの日々を送っていると、毎日エナジードリンクを飲んで四六時中勉強をして、身を削って、青春を犠牲にして、という世界がリアルに、間近に見えるのです。私はエナドリは怖くて手を出しませんでしたが…。いろんな友達に相談に乗ってもらったという出来事が直前にあったおかげで、その世界の外を見ることができたのもよかったのだと思います。

塾やめたるわーと騒いで塾の先生に相談に乗ってもらって、なんとか引き留めてもらって、受けなければならない授業の数を減らしていただきました。自分でも生活を見直してみて、だいぶ自分の時間が増えました。

 

根拠はないんですけど、私は自分で自分の文章が好きです。このとき根拠を作ろう、ということで、ブロガーとして有名になってやろうと一万円ちょっとを落とし玉から捻出してブログを立ち上げました。もしかしたらこれが職業になるかもなんて本気で思ってて、なんか実は自分大好きなのでしょうか、社会を甘く見ているというか(ブログの収益化は諦めましたが、社会を甘く見ているところがあるのは今もです)。矛盾ですね。

 

誰か読んでくださる方がいたかどうかは別として(今もいらっしゃるかわからないと思って書いてます)、楽しかったです。学校から帰ってきて8時とかからブログを書き始め、気づいたら夜の2時をまわっていたりしてました。

友達が大好きで、自分を好きになるために努力も始めて、余裕が無いといっちゃ無かったけれどTwitterで学校の人と繋がってみたり本を読んでみたり歴史や俳句の勉強をしてみたり制服のスカートを切ってみたり友達と遠出をしてみたり、春から夏休みはいろんなものに手を出して、まとめるなら「好き」を中心に生き始めてみていました。

 

他者への依存はやめたい!!

 

人に依存する癖は抜けきっていませんでした。友達と話すときは嬉しかったけど反応とか声色とかを思い出して家で怖くなって自分の言ったことを反省していました。陰キャ特有のアレです。今の私としては、生まれ持った感受性が極端に高いとこうなるんじゃないかなと思いますが。専門用語をあげるなら、HSP、HSEのような。

怖くなったときに言い聞かせていたのは、「誰かひとりに思いをかけてはいけない」ということでした。有名な言葉を引用すれば『来るもの拒まず去るもの追わず』、もしくは『FRBご自由にどうぞ(Twitterの、フォロー・リムーブ・ブロックを自由にしても大丈夫ですという意味)』に近いです。

友達といったって、私の全てが好きなわけはないと思うんです。意見が食い違う部分は絶対にあるし、見えていなかった部分が見えたときに、この人とは合わないと思ったなら無理して付き合ってもらうよりも離れてもらったほうが全然良い。そうしたほうがきっとその人も私も幸せなんですよね。ところが誰かに思い入れをしてしまうとその人が離れていったときに非常に精神が揺れてしまうのでよくない。というか離れられるということに敏感になって、反応や声色まで過剰に気にしてしまうなって思ったので。

これは後ほどとある経験から、私は「人間不信」という名前をつけて大切にすることとなった価値観になるのですが、その経験も難しいことなので、考えがまとまったら記事にしようと思っています。

 

オタ活に再熱して感情に乗っかって生きる大切さを思い出した!!

 

夏休みになぜなのかブログを更新することを後回しにしはじめてしまいました。そこから今まで失踪していましたね。

そんな罪悪感の中で大変言いづらいのですが、夏休みから秋の始めにかけて、新しくハマった漫画がありました。私は元来、オタクという種類の人間です。高校受験のときからしばらく離れていたのですが、作品というか、文化に対して心が揺れることが、もっと知りたいという渇望が、久々に私の中に蘇りました。離れていたときはそんな馬鹿なとすら思っていたのですが、この感情は平気で普段の体調や心拍数すら支配してくるものでした。忘れていました。

その出来事に対しては、ずっと自分の意思というものを忘れていたんだな、といった感想です。順位や偏差値といったものがついてまわるようになってから、勉強に対して周りからの目を意識し始めました。いつしかどれだけ自分の時間や青春や趣味や感情を犠牲にしているかをアピールするようになりました。

また、自分は感情に突き動かされてこそ力を出せるのではないかと思いました。楽しい、知りたいという感情は熱望、渇望といった勢いを持ち、その勢いに乗って”オタク活動”をし、そうして得たものは今でも私の知識や考えの大部分を占めています。そういえば友情だって部活だって恋愛だって、私はずっと感情面において”重い女”でいました。重い女って言い換えれば熱い人間なんですよきっと。いま現在進行形で、感情だけでこの文章に集中し始めてから机を離れず、4時間経ったところです。

 

感情に乗せて努力をするのが得意な人間が、感情を抑えて勉強をしている。私がくすぶっていたのはこのせいだと思ったのです。

 

知識欲に火がついて学歴社会を考察した最強メンタル(←諸説あり)で受験生になる!!

 

加えて、作品や文化を作るにあたって(そうするともちろんそれらを楽しむにあたっても)基本的なところは学生に求められる「勉強」から得られる知識に集約されているのだろうなとも考えるようになりました。

それとは少し外れたところですが、数ある具体的な事柄の奥には、もとをたどっていくとすべてに通じている根本的で抽象的な何ががあるのではないかという推測をしています。

分かりづらいので例を出しますと、私は十七条の憲法に熱をあげたことがあり、第10条「忿を絶ち瞋を捨て、人の違うことを怒らざれ」の言葉をモットーとしています。それを友達に話すと、その子は「私の愛する『無常観』にも通じる点がある」というのです。それを聞いた時に、媒体が違えども各々の感情、思考という形のないところにおいて、その媒体から得られるものには通じる何かがあるのではと思いました。この推測が正しいかどうかを学ぶことは、私が大学で哲学を学ぶことを志望している理由の一つです。ん?この文章すこし和文英訳の例題みたいですね…

 

悩みたいという熱望に乗せて、そんなことを悩んで悩んで悩みました。知識欲に火が付くまでに時間はかかりませんでした。私には全般的な知識が必要だ、自由になるための知識が、自分の興味に向かって際限なく勉強できる環境が必要だ、勉強をしていたいんだ!!!!

ちょうどテスト週間に入ったところだったので感情に任せて夜更かししてテスト勉強をしまくって、肝心のテストで開始5分後に寝落ちし、ほぼ白紙で提出し見事赤点を取るという本末転倒の暴走っぷりです。反省はしていますが後悔はしていません。

 

この結論に至った頃、家族と進路について相談する機会がありました。この時にはじめて私は「哲学なんかやって何になるの」「夢もないのに何をするために大学に行くの」という家族からの問いに自信を持って答えることができました。はじめて私がなぜ勉強をするのか納得できた瞬間であったとも言えます。

 

受験生でも、また大学生でも、「自分がなぜ勉強するのか」という了解をしきれていない人も多いのではと個人的には感じます。過剰な学歴社会はその証明だと思っています。やりたい勉強ができる環境(文献や時間や指導者など)さえあれば皆同じ質の勉強ができうると思うのです。それなのに、例えば、同じだけ勉強したとしても東大に受かった人の価値と、落ちてしまった人の価値には差ができる。落ちた人が知っていることで、受かった人が知らないことだってあるかもしれないのに。

(ちなみに私は高校受験に落ちてから、合格、不合格とは、受験とはということを考えるのが癖になってこびりついています。不合格者とはそういうものなのかなって思ったり。違う人もいるかもしれませんが。)

みんなが勉強に対して熱意を持ったならば、学歴なんていらないのではないでしょうか。でもいまの社会はみんなに勉強への熱意をもたせる自信がないから、熱意との相関が強いのであろう「点数」によって選民をするのではないかなって思ってしまいます。

 

ただ最近思ったのは、これだけ私が熱意をもったとしても勉強って大変だなってことです。辛さを感じないわけではないのでした。そんな勉強の「辛さ」を知らないのに、勉強がしたい、勉強って楽しいって言えないなとも思いますね。

それから、おそらく学歴主義を非常に強く持っている人ならば、私が学力的な説得力を持っていない限りは、私が「学歴というものは学問において本質的な問題ではないのだ」といっても負け惜しみにしか聞こえないのでしょう。

そんな人にも私の考えを伝えるために、また「つらい」勉強を知るために、実を言えば私としてはだいぶ高望みな志望大学を設定しております。

 

その点で、根拠はやはりないに等しいのですが、私の価値、というのか強みは、ここまで感情的になって知識を渇望したり、悩み尽くしていったりできるところなのだと思えるようになりました。それが正しいかどうかは、大学受験や大学での研究も含め、これからの将来にかけて私がいかに勉強し、いかなる人間になれるかによって証明されるでしょう。それを叶えられるように、頑張ります、といった気持ちです。

 

ということで感情に任せ勉強へ突っ走っていた結果、ブログの存在を忘れていたということですね。失踪しててすみませんでした!!!お久しぶりです!!!!

 

おしまい